希少な加賀竿職人から加賀竿を学べる体験イベント| 工芸×釣り |10/8(日)
〜加賀竿・加賀毛針を学び、伝統工芸品(加賀竿)を使ったハゼ釣り体験&その場でハゼの天ぷら〜
江戸時代、幕府は、外様大名最大である加賀藩の情勢に目を配り、常に警戒をしていまし
た。そこで、加賀藩では表立っての武芸訓練等を避け、幕府を刺激しない政策が取られ、藩士
の「健康増進」の名目のもと、個々による屋外の猟漁を奨励しました。それは、弓矢を使わず
小鳥類を差して捕らえる「鳥差し」や「テンカラ釣り」と呼ばれる鮎釣り、「どぶ釣り」と呼
ばれる鮎毛針釣り等です。
「鳥差し」は、竹竿の先に鳥餅を付けて鳥を捕る猟で、この鳥差しを行う餌差竿は、取り回
しに便利なように女竹の継ぎ竿になっており、この竿の応用から釣竿の継ぎ竿へと発展して
いきました。
「テンカラ釣り」は、竿は2尺7寸ほどの三本継ぎの短竿を使い、テンカラ針という針と錘
が一体化した特殊な針を水中で引いて鮎を釣り上げる釣法です。
「どぶ釣り」は、長竿を用い、釣り糸に比較的重量のある錘と毛針を付け、川の深みや淵で
竿を上下させながら鮎を誘い釣り上げる釣法です。「どぶ」とは、川の深み(どぶ)を釣る事
から付けられた呼称で、金沢が発祥の地です。どぶ釣りは、竿の長さに対し糸と仕掛けの長さ
が短く、延べ竿を使うと釣り上げた魚を手元に取り込む際、大変不便でした。継ぎ竿を用いる
と、竿を尻より順に抜き、竿を短くして手元に鮎を引き寄せられるので、手早くスムーズに取
り込むことができました。このような必要性から、前述のように餌差竿を鮎竿に転用・改良
し、鮎どぶ竿用の継ぎ竿の起源になったと伝えられています。
明治維新以後は、魚釣りも庶民に開放され、釣り人口も増加しました。1890年(明治23年)、加賀で使われていた毛鉤が、全国の名産品を東京に集めた第3回内国勧業博覧会に出品され、その美しさから高い評価を受け、「加賀針」の名が全国に広がりました。この時に、鮎どぶ竿も紹介されたが、加賀竿という名称は冠されていませんでした。 明治末期から大正期にかけて金沢産の鮎毛鉤と竿がセットになった「鮎どぶ釣り」が関東方面に普及し、「鮎どぶ釣り」は、「金沢式」「石川式」とも言われました。大正時代には、「鮎どぶ釣り」が全国で盛んになり、金沢産の竿が高い評価を受けたと伝えられています。
昭和初期から第二次世界大戦直後に掛けては、国内の食糧事情が急激に悪化し、魚釣りが食料を確保するための手段となった時代でした。食糧事情が悪い状態は昭和20年代半ば頃まで続き、その間、皮肉にも釣りが最も盛んな時期となり、安価な量産的釣竿の生産も絶頂期を迎えました。又、この頃金沢には30人以上の釣竿職人がいたと言われていますが、加賀伝統の鮎どぶ竿(鮎毛針竿)の継承者は数人を数えるだけでした。
「加賀竿」という呼称は、第二次世界大戦後、鮎釣り竿・鮎毛針の職人の会議で「金沢の鮎どぶ釣りは、藩政期より釣針と釣竿が一式となり発達してきた釣漁技術で、『加賀針』に対するに、『加賀竿』と命名する。」との合意で名付けられました。
「加賀竿」とは、狭義では金沢産の鮎どぶ竿と鮎テンカラ竿を指し、広い意味では金沢産の釣竿全体を指します。その後、カーボン等の竿が台頭し、竹を素材とする加賀竿の需要も減り、昭和50年代には、加賀竿の伝統技術を継承する竿師は、神原圓幸氏(作銘 八郎兵衛)と越野正雄氏(作銘 竿正)2人のみとなりましたが、その技は、神原圓幸氏から目細忠吉氏(作銘 忠竿)そして中村滋(作名 白峯)に継承され、平成の時代も「加賀竿」は、絶えることなく受け継がれてきました。
希少な加賀竿職人から加賀竿を学べる体験イベント| 工芸×釣り |10/8(日)
〜加賀竿・加賀毛針を学び、伝統工芸品(加賀竿)を使ったハゼ釣り体験&その場でハゼの天ぷら〜
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