金沢みらい茶会|大島宗翠さん|EXHIBITION2〜茶の湯という営み〜
大島宗翠さん
祖父の越沢宗見は、当時、数寄者として知られておりまして、道具商のようなこともやっておりましたので、茶人の高橋箒庵、昭和天皇陛下の侍従長の入江為守、大倉財閥の創始者である大倉喜八郎、当時の国務大臣だった林屋亀次郎など、県内外の様々な要人と交流がありました。
わたしが中学生の頃は世の中がまだ貧しかったですが、東京からいろんな実業家が越沢を訪ねてくる度に、越沢は料亭で彼らをもてなし、わたしも手伝いに来いと駆り出されたものです。簡単な茶箱を用意して一服お茶を点て、話を聞くのですが、そういう時に越沢は決まってわたしに「点ててみろ」と言いました。お稽古も特にしておらず、茶道の右も左もわからないわたしに「蓋を開ければできる」と言うのです。どんな方の前でも怖気づかなくなったのはこんな経験があったからだと思います。度胸がつきました。
元々お茶の世界に入ろうとは一切思っていませんでした。大学時代は、金沢美術工芸大学で日本画を専攻していましたが、絵を描くよりもすっかり演劇に夢中になっていました。演出もしましたし、音響や照明など、とにかく舞台に関わることが好きでした。
ある時、お茶の世界の「演劇性」に気づきました。お茶は人をもてなすものです。芝居も、歌を歌うことも、茶の湯も、お客様を喜ばせるという意味では同じだと思ったのです。お茶では道具が役者であり、亭主は演出家で、作家でもある。お軸が茶会のテーマであり、主役です。決して欲張らないほうがいい。構成する役者の魅力がここに引き立って、集まることでまた新たな魅力が生まれることが理想です。
頭のなかでストーリーを作り上げ、それに準じてふるまう。アドリブもあって、思いもよらない展開もある。そういうところも茶の湯と演劇の共通項だと思います。
越沢はわたしを茶会によく連れて行ってくれました。車を運転するようになると、運転手として富山や福井まで越沢に同行したものです。その時に、「わたしが手にとってよく見ているものは、おまえもちゃんと見ておけ」というふうに言われました。なんとなく眺めて気にも留めていないようなものは気にするなと。あれはある種の英才教育だったと思います。真贋を見極める目が多少なりとも養われたように思います。しかし、越沢からも、茶道を教えていた父(大島宗古)からも、茶道をしなさいとは一度も言われませんでした。そして、越沢は「自分はお茶は教えない」とも言っていました。あくまでお茶を楽しみたかったのでしょうね。
石川県は工芸王国と言いますが、茶道具を作る人はある時期からやはり少なくなっていったと思います。そこで、自分の道具がどんなふうに使われるのかを作家に見てもらえば、作家も勉強になりますから、そういった機会を作ろうということで「北國茶会」(現・金沢城兼六園大茶会)が始まりました。
作品は「作家の子ども」です。お道具は使わなければなりません。これは中村記念美術館を創設した中村栄俊さんも越沢も、同じことを言っておりました。
また、お茶人という存在は、積極的にいろんなお道具を茶の湯に取りこんでいくものだと思っています。わたしもそんなふうにしていろいろと楽しんでいます。ヴェネチアングラスの小物入れに象牙の蓋をあつらえて茶器を作ったり、タイで出合った器を建水にして使ったりね。道具の九割以上は見立てられて道具に転身するものです。海外に行くと、外国の方は自分のライフスタイルに応じていろんな雑貨や道具を使っているなと感じます。しかし、日本人は使い方がわからないものを見ると「これは何に使うものか」とたずねて、自分で使い方を考えるのではなく、そのように使おうとします。
「これは何に使えるかな」と自ら考えながら暮らすと、ものの見方や視点が変わり、生活が豊かになるということも、越沢から自然と学んだことです。