金沢みらい茶会|西村 松逸 さん|EXHIBITION2〜茶の湯という営み〜
加賀蒔絵・漆工
西村 松逸 さん(にしむら しょういつ)
祖父も父も、道具を作ることだけでなく、見ることも好きでした。祖父は大阪で古美術商をしていた兄弟のところで丁稚をしていたこともあり、金沢のお客様のところに品を届けたり、金沢でこういうものを探してほしいと頼まれたりもしていましたので、家にはいつも何かしらのお道具がありました。わたしも見る機会が多かったからか、祖父や父同様に、やはり道具を見ることは好きです。
道具好きな方、お茶の好きな方が祖父との会話を楽しみにお見えになると、祖父の横でいろんな話を聞かせてもらいました。そういう時間が楽しかったですね。茶筅を振っているところを見たことはなかったですが、祖父は宗和流だったようです。当時は宗和流の方がわりと多かったようです。父は表千家、母は宗和流、わたしは裏千家の先生に習いました。祖父の作ったものにはたしかに、宗和好みの雰囲気があったりします。
わたしにとって、お茶は日常でした。こんな家はあまりないと思いますが、我が家には8畳の居間に水屋がしつらえてあるんです。茶の間に通せる身近なお客さんには、水屋の前でお茶を点てます。もちろん、自分たちがお茶をいただきたい時も同じように。茶碗は、そこにずっとあるものもあれば季節ごとに変わるものもあります。座敷にお客さんがいらっしゃるときも、向きの茶碗を水屋に出しておきます。茶の間に水屋があるなんて普通じゃないと怒られるかもしれませんが、それは我が家らしい「お茶の形」でした。お茶会の時だけでなく、ずっとお茶が自分から離れずにあるということが大事だと思っています。「普段のお茶」がわたしは一番好きですね。
恵まれていることに、いろんな方がお道具やお茶の世界へと導いてくださいます。感謝、感謝です。わたしはあまりちゃんと学ぶことができていなかったですが、それでも習っていた先生は朝茶や初釜もさせてくださったりして、無理なく自然にお茶を教えてくださいました。お茶の先生だけでなく、いろんなお茶人の方々もお茶事に声をかけてくださいました。正客をするように促してくださったり。そういった経験をするなかで、いっそう「お茶はいいものだな」と思うようになりました。でも、お茶にはちょっと怖いところがあります。人間というものが全部出るからです。昔は金沢のいたるところで月釜があって、なかにはその席中で大事な相談や人事などの決め事をされていたという話も聞いています。それはお茶の世界にいるとどんな人なのかがわかるから、そうしていたんでしょうね。すごく合理的なことだったんだと思います。お茶をしたら人となりが一度にわかる、そういう良さをみんなで共有していたからできたことですよね。
祖父が月釜に行ったときの話でよく聞きましたが、亭主が酔ってしまったからと、客に点前を代わってもらうというようなことも、当時はけっこうあったようです。こういうことはものごとの線引きを共有している人同士でないと、できないことですよね。みなさん、「真剣に遊ぶ」というところをわきまえている。そこが金沢のいいところなんだろうなと思います。その感覚が金沢を支えてきたと思います。
茶道をされていなくても「あの人には、お茶があるな」とか、習っていらっしゃる方でも、「この人には、お茶がないな」というような言葉も耳にします。自分をアピールすることなく自分を全うする仕方も、お茶のなかにはあると思うんです。お道具においてもそうです。お茶席では、主張しすぎたり、きれいすぎるお道具は「茶味がない」から使えません。こういうことを大事にするなかで、結果として、これまでにいい作り手がたくさんいらっしゃいました。そこにどう続いていくのかが大切だと思っています。
昔はその点において、世間みんなが大変厳しかったようです。そういったことも茶の湯から学びます。年齢を重ねるごとに実感します。最近の世の中は自己主張、自己表現にこそ意味や価値があるという風潮ですが、わかっている人は黙っていますよね。自分はつい言いたくなるのですが。
茶の湯への入口は全方向で全開なんです。焼き物でもお作法でも、どこからでもお茶の世界に入ることができますが、大切なのは「どういうふうにそこを通って抜けていくのか」だと感じています。学問として究めるのか、素養とするのか、生きていく栄養とするのか――それはどう選択してもいいのでしょう。茶の湯を堅苦しいように感じる人も多いですが、茶の湯には一旦、いろんな目的でアプローチする人を受け入れる大きな包容力があると思います。「自分らしいお茶を見つける」という真剣な遊びのもっと先に、本当のお茶の楽しみがあると、いろんな方が学ばせてくれました。
金沢は流派もたくさんありますし、あまり偏りなく、自由にお茶を楽しんでいらっしゃる人が多いと思います。高い次元で実践されている人も、財界人も、近所の方も茶碗を焼いてみたりして、それぞれのお茶を目指している。そういうところが金沢のいいところだと思います。流派も関係なく、みんな違っていることがあたりまえという意識。それが「真剣な遊び」につながっていくのだと思います。
いろんなお茶事のお誘いをいただけるのもありがたいことです。大きなお茶会と違って、別の緊張感があります。お道具それぞれに作り手が存在しますので、お茶事で拝見するときには、この作り手はどんな人だったんだろうと思いを巡らせます。お道具一つ眺めるとそこに人が一人、現れるようなイメージです。お茶事となるとたくさんの人が立ち現れます。それは本当に壮大で、いろいろと思い知らされることもあるのですが、お茶はおいしいですし、とてもいい時間です。
器選びにも亭主の思いが見えますし、懐石料理では、量とタイミングの組み合わせがいかにものをおいしくさせるかということに気づかされます。お料理を出すタイミングでまったく味が変わりますし、おいしく感じる順番というものがあるんだなと感動します。また、炭や火、湯の沸き加減など、あらゆる部分が突き詰められている。全部が科学的で、さらに人間に基づいていて、それが人の思いを支える歯車になっているのだと思います。自分にとって茶の湯は、ものごとを考える支えになっています。茶の湯は体験がすべて。理屈じゃない。体験して初めてわかることですね。
自分がいかにお茶から遠く、何も知らないかを思うばかりです。
どこからでも入ることができて、どこまでも深い。そうやって人物が極まってくるところが茶の湯の醍醐味なのでしょうか。なんといっても、人が集まって一つのいい時間になるというのがいいですね。たとえばお菓子を取り回すことにしても、最近はコロナでできなくなりましたが、それによってそこにいる人たちがつながっていけますよね。
やはりコロナによって濃茶も各服点になりましたが、それはみなさんが温かい濃茶をいただくことができるようになってよかったかもしれないですし、一方で、濃茶の時間の移ろいと客それぞれの役割を奪ってしまったかもしれません。いろんなことに気づかされます。そんな新しい発見も楽しいです。